起床後、朝食をとりながら中国語の復習(30分)
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エウレカセブン(30分)
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掃除しながら中国語ヒアリング(1時間)
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プリキュア(30分)
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中国語(1時間30分)
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確率論の教科書を読む(2時間)
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メール書いたり(30分)
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昼食、昼寝(1時間30分)
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なぜかCプログラミング(3時間)
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ディナー(2時間)
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Cの続きをやって、終身(1時間)
社会人になってやってきた仕事っていうのは、(そう遠くない)納期までに終わらせるような成果仕事が中心だった。そのため、どうしても、例えば今日から10日間はこの仕事にかかりきりにならなきゃいかん、ってことになる。これが精神的につらい。しかも、その仕事で得ることができる知見は、その仕事を納品した後で再び繰り返されることが少ないから(しばらくは見たくもない!)、自分のなかで蓄積されづらい。
一方、学生のころは、毎日の日中が1時間30分~2時間に区分されていた。少なくともタテマエでは、その間は一つの講義や演習に集中する。各単位の境界は15分から20分の小休憩で区切られていて、連続する単位でまったく異なる内容の講義や演習に参加することも多い。そして、そのパターンが少なくとも数ヶ月は継続し、その間に得られた知見は、高々テストに通る程度には蓄積される。いちおう断っておくけど、テスト前にだけ詰め込みするようなケースは想定していない。
今になって考えてみると、人間が集中力を維持できる時間の限界は経験的にも2時間くらいだから、この区分はかなり効率的だったんじゃないだろうか。だいたい、人間は同じことを延々とやっていると飽きるし、飽きれば効率は悪くなるし、効率が悪くなれば出来はひどくなるし、フラストレーションもたまるし、仮に最初は面白かったものでも、だんだん苦痛になってくる。そうすると、一段落ついてから再び同じ物事に取り組むのを身体が拒否するようになる。再開しようとすると強烈な眠気や肩の痛みに襲われて、うだうだしたり、身体の不調を愚痴ったりして、一日が終わってしまう。そして自己嫌悪。今日はちっとも進まなかったから明日はがんばるぞう、と思っても、明日はむしろ今日やらなかった分だけ仕事が滞っているわけで、今日以上に気力が出ることはありえない。
ちなみにこれは、とくに生産的な活動のように、脳を酷使する仕事にいえる傾向だ。不都合なことに、ゲームとかWebとか、非生産的な活動ほど延々と続けることができたりする。可処分時間は仕事の密度にかかわらず一定だから、こういう拒否反応が出るようになると、可処分時間を埋めるべく、ゲームとかWebとか、とにかく何か後で後悔しがちなことに精を出してしまう。
そこで今日からは、会社での仕事時間も集中力の維持できる細かい単位で区切ってみることにした。単位は1時間30分。続けて同じ仕事をする場合でも、1時間30分経ったら必ず小休止を入れる。1サイクルの間は、できるだけ割り込み的な仕事(メールの返信とか)は割けて、次のサイクルで処理する。
こうすれば、午前中2サイクルと午後3~4サイクルになるわけだが(もちろん残業なんてものは考慮しない)、こうして単位を区切ることで、作業時間の見積もりもつけやすくなるはずだ。今週中に終わらせるためには1サイクルでこれだけこなさなければならないけど、それは物理的に不可能だから、あきらめる。とか。あきらめないでダラダラ続けても、アウトプットは同じですから!
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