2006/12/28


自転車のタイヤのバルブカバーを盗まれた。走行に支障はないとはいえ、腹がたつ。この手の犯罪はとにかくたちが悪い。やられ損だ。仮に犯罪が発覚しても犯罪者にとってたいした不利にならない。社会的なリスクも対して大きくないから、倫理感がない限り手を染めるほうが得策なんだろう。古今東西、不条理な大人の制裁がない社会で中高生がいきがるのは、これが理由にちがいない。

ハムラビ法展でさえ、たかだか受けた犯罪と同じ報復(懲罰)しか認めない。これはフェアじゃない。最初に目を潰された被害者のほうは、そもそももともと目なんて潰されたくなかったわけで、たまたま犯罪に合うようなことさえなければ幸せに暮らしていられたはず。一方、目を潰すほうには選択肢がある。相手の目を潰したところで高々自分の目を潰されるだけだから、それを覚悟して犯罪により得られるメリット(遺恨を晴らすとか)のほうが大きければ、犯罪のほうを選択できるわけだ。ずるい。

復讐法で対等に扱うべきなのは犯罪そのものの程度ではなく、犯罪により被る被害の程度であるべきだ。だって、仮に自転車のバルブを盗んだやつが僕の前に現れてバルブを返してくれた上に「俺の自転車のバルブをお前が盗んでもいいぜ」と言ってきたとして、僕はそいつの自転車のバルブなんて全然盗みたくないし、それで僕の今の憤慨とか悔しさはとうてい補填できない。かといって、そこでそいつを殴りつけて今の僕と同等の憤慨を感じさせることに成功しても、それで僕は警察に捕まって刑事裁判を受けて刑に服し、いま以上の不快感を味わうことになる。それじゃあやっぱり不公平だ。どうする?

ポイントは、法律にのっとった刑罰の度合が比較的線形に緩やかに厳しくなるのに対し、僕が相手に与えることが可能な苦痛はより急峻に厳しくできるというところにある。だって、そこでカッとなってそいつを殺害したところで、いまみたいな事情なら極刑にはなりそうもない。つまり、相手を殺害するまで至れば、確実に僕のほうが被害の程度が小さくなる。どのへんに損益分岐点があるかはさだかじゃないけど、妄想ではタコ殴りにして半身不随にするところくらいになる気がする。その程度であれば、こっちも懲役10年程度でかつ残りの一生を棒にふるだろうし、相手も一生を棒にふるだろうから、きっとイーブンだ。被害の程度を平等にするという精神にのっとればそれくらいが妥当だってことだ、ざまみろ。どんな犯罪も、せめてそれくらい殺伐とした覚悟でやってもらいたいものである。

頭に血が登っているので適当なことを書いちゃったけど、「自転車のバルブの盗難」を「家族の傷害事件」とかにしたら、それほどふつーの人情とかけ離れていないような気がしてきた。もし家族がそのへんのガキから傷害事件を被ったら、僕は犯罪者と被害の程度が同じになるようにがんばるかもしれない。

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