2006/03/31

ここのところ、職業倫理について考えることが多い。これまでは、考えるものではなく、事あるごとに意識するものだった。職業倫理にもとる行為は、しないのが当たり前。金もらってる以上、顧客やビジネスパートナー(いまどき、どっちも Buzz っぽい)の利益になる行動をしろ。信頼(これも Buzz っぽい)は裏切るな。自分の仕事に誇り(やっぱり Buzz っぽい)を持て。

なんか違うと感じるのは、職業倫理とされているものは、どれも「くいぶち」にあぶれないための知恵でしかないんじゃないかってとこだ。それはそれでいいし、必要だし、大切だと思うけど、はたらくってのは所詮「くいぶち」なのか? 「食ってけなかったらどうする。くいぶち上等」のようなコメントは受け付けません。「はたらく=くいぶち」は、極論すれば「第三次産業なんてやめちまえ」に聞こえるから。なんで書籍みたいなモノが僕の「くいぶち」に転化されるのさ。そのモノが誰かにとって「くいぶち」になるから。そんなことは19世紀の時点ですでに常識。いまは21世紀。もうちょっと進化してるはず。っていうか、進化しててくれないと困る。いまさら野麦峠は越えたくないって。

で、職業倫理について考えてみるわけだけど、考えれば考えるほど、これが実は危険思想なんじゃないかと思えてくる。もうちょっと限定すると、職業倫理ドリブンであることの危険性。

たとえば、「エンドユーザのため」という台詞は聞こえがいいけれど、それは「家族のため」とか「上司のため」とか「会社のため」とか「お国のため」っていうのと何が違うのか。いずれの場合も根っこにあるのは保身だし、くいぶちなんじゃないかと。批判はしない。ただ、「はたらく」の根っこにあるのが「○○のため」っていうのは、素朴に考えて寂しいだけじゃなく、いきつくところは野麦峠かもしれなくって鬱。

あるいは、本当に自分の仕事に誇りを持つべきなのか。仕事に関係なく、自分自身に誇りを持つべきじゃないの?

じゃあ、何を「はたらく」の背景に抱けばいいのか。まず信じていいのは、技術だと思う。どんな「はたらく」でも、技術がなければ役に立たない。もちろん、ここでいう技術はテクノロジーではない。「はたらく」によっては、無作為な人間とのコミュニケーション能力みたいなのが重要かもしれない。もうひとつはセンスだろう。本来は技術と切っても切り離せないものだけど。

となると、どうすれば技術とセンスを取得できるかが問題になる。暫定的な自分の答えは、「各自が好きなことを続ける」。好き→続ける→技術とセンスがついてくる、という進研ゼミのような理屈はわかりやすいと思う。それに、好きじゃないことを「仕事だから」って開き直って続けるのはやめようよ。それは不幸だから。

この答えは、実は何も言っていないに等しいし、好きじゃない仕事に就かざるを得ない人のことを考えていないことも十分に自覚している。あと、自分のことを棚に上げていることも自覚している。そもそも、好きなことっていうのがよくわかっていない。僕は、好きなことがなんだかずっとわからない(いまだにかなりあやふや)。だから、スポーツ選手とかミュージシャンのような、好きなことがわかりやすい「はたらく」がうらやましい。それが続けられるほど好きな人がうらやましい。僕の話はどうでもいいので終了。

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