携帯デバイスの必要性について議論になると、いつも出てくる意見。「ケータイでいいじゃん」
ちがうんだよ。最低でも qwert じゃないとやなんだよ。qwert が人間工学的にどうこうとかの議論はおいとくけど、とにかくあのケータイの文字入力は、どんなに予測入力があっても、表現を制限したり特殊化したりすることをデバイスによって(暗に)強いられている。たぶん。あれで十分だと思っているのは、実情は思わされているだけで、単に他の選択肢がないから十分だと感じるにすぎない。擬素数を疑わずに素数判定をしてるみたいなもんだね。ちょっと違うか(ぜんぜんちがう)。
以前は、ケータイの文字入力でも結局は人間のほうが慣れちゃうからいいんじゃね、と楽観視してたけど、やっぱりダメだということに気づいた。自分が慣れたくないからダメなんじゃなく、表現の多様性のためにダメだ。qwertにも、いや、そもそもテキストデータ化にも表現の多様性を縮退させる傾向があるかもしれないけど、だからってデバイスの制限によって縮退が加速させられていいのか?
表現の多様性と利便性(コミュニケーション可能性)はどこかでバーターする。とにかく多様ならいいってものでもない。その点、書き言葉、つまりテキストデータのみで扱える範囲の表現は、歴史的にもいろいろあって(右翼:法令とか公文書とか←→左翼:俳句とかジョイスとか、そのたもろもろ。宗教の教典もこの軸では左翼だね)、あるいは共同体における教育とか文化の後ろ盾もあって、比較的センスがいいところでバランスできる手段だと思う。まあ、このバランスだって、そういう歴史とか教育とか文化に基づいているからという意味でしかセンス云々を語ることはできないけど、それはそれでしかたないっしょ。だって表現は、歴史とか教育とか文化に基づくコードの塊を抽象化するものなんだもの。
0 件のコメント:
コメントを投稿