2009/05/24

Goodby Bafana

『マンデラの名もなき看守』を見た。見ることができた。赤ちゃんがいると映画館にいく機会は限られるのだけど、今日はたまたまそういうチャンスだった。そして、たまたま今週の早稲田松竹のラインナップが『マンデラの名もなき看守』だった。ついてた。

映画では、旧体制の南アにおける黒人差別政策についてどうこう言うこともなく、看守としてマンデラとかかわるたびに気がついたら人生の窮地に立っている男とその家族の話をテンポよくつないで、1990年2月11日の釈放シーンで締めくくっている。じわじわくる。ラストまでのエピソードのおかげで、最後の"goodbye bafana"というセリフの手前くらいで涙が出そうになる。そして釈放シーンの看守の奥様がとてもきれい。この2つのシーンは、もっと感動的に演出してもよさそうなものだけど、これでちょうどよかったのだろうな。

現代史に散らばっている社会問題って、「かわいそう」駆動型の活動や「正義感」駆動型の行為、あるいは思考停止になりがちだ。自分は正直なところ思考停止していると思う。それを「娯楽」の形で消化する贅沢に折り合いを付けるのは難しいし、たぶん付かない。『ホテルルワンダ』もそうだった。でも、たとえばダライ・ラマ14世の亡命後の半生を描いた映画ができれば、きっと見に行く。贅沢はくせになる。

2009/05/23

A rant about happiness

タイ料理屋でしこたまのみながら、「幸福」を定義した。
手元にメモが残っているので、思い出しつつ書き起こしておく。

「幸福」とは何かよくわからないので、まずは「幸福でない」について考えよう。

レベル1の「幸福でない」とは、幸福の軸が定まっていて、幸福の側にいない状態。
レベル2の「幸福でない」とは、レベル1の「幸福でない」を定めるすべがない状態。つまり、この場合は、レベル1における幸福の軸を見出せていない状態。

この定義から、レベルnの「幸福でない」を自然に拡張できる。
レベルnの「幸福でない」とは、レベルn-1の「幸福でない」を定めるすべがない状態だ。

で、レベルωの「幸福でない」とは何かを考えてみる。ωは最初の可算無限基数。たぶん、任意の可算基数レベルの「幸福でない」を定めるすべがない状態、なんだろうな。

ということは、ある可算基数があって、そのレベルで「幸福でない」を定めるすべがあれば、レベルωで「幸福でない」ではないといえる。「幸福でない」の逆が「幸福」とは限らないけど、まあ、「幸福になりうる」っていうくらいならいいだろう。とくに、レベル1で「幸福でない」を定めるすべがあれば、レベルωで幸福になりうる。

ここまで書いて気づいたけど、べつに無限基数まで拡張する必要なかったか。
レベル1で「幸福でない」を定めるすべがあれば、どんなレベルでも幸福になりうる。

ところで、いまうちらはレベル1の「幸福でない」を定めるすべを持っている。実際、定めることができている。したがって、うちらはどんなレベルでも幸福になりうる。

おや、なんだかあたりまえの結論じゃないか。
そんな話だったっけかなあ。これだから酔っ払いは。