2005/08/25
2005/08/23
2005/08/22
この土日、一日を小さな単位に分割して生活するという試みをした。つまり、学生と同じ生活を意識的に心がけてみた。学生時代のように単位時間で区切ってパラレルに複数の勉強や作業に励み、それらを数ヶ月以上のスパンで継続することで、有意義に休日を過ごしたい。9時から18時までをこの単位で区切れば、だいたい4~5サイクルくらいになる。ってことは、週に8~10単位の仕事(労役ではない)をパラレルに無理なく進められるってことだぞ。画期的だ。ちなみに、昨日の日曜はこんな感じに割り振った。午前中を中国語と教科書を読むのにあてて、午後は昼寝とCいじりという感じ。
社会人になってやってきた仕事っていうのは、(そう遠くない)納期までに終わらせるような成果仕事が中心だった。そのため、どうしても、例えば今日から10日間はこの仕事にかかりきりにならなきゃいかん、ってことになる。これが精神的につらい。しかも、その仕事で得ることができる知見は、その仕事を納品した後で再び繰り返されることが少ないから(しばらくは見たくもない!)、自分のなかで蓄積されづらい。
一方、学生のころは、毎日の日中が1時間30分~2時間に区分されていた。少なくともタテマエでは、その間は一つの講義や演習に集中する。各単位の境界は15分から20分の小休憩で区切られていて、連続する単位でまったく異なる内容の講義や演習に参加することも多い。そして、そのパターンが少なくとも数ヶ月は継続し、その間に得られた知見は、高々テストに通る程度には蓄積される。いちおう断っておくけど、テスト前にだけ詰め込みするようなケースは想定していない。
今になって考えてみると、人間が集中力を維持できる時間の限界は経験的にも2時間くらいだから、この区分はかなり効率的だったんじゃないだろうか。だいたい、人間は同じことを延々とやっていると飽きるし、飽きれば効率は悪くなるし、効率が悪くなれば出来はひどくなるし、フラストレーションもたまるし、仮に最初は面白かったものでも、だんだん苦痛になってくる。そうすると、一段落ついてから再び同じ物事に取り組むのを身体が拒否するようになる。再開しようとすると強烈な眠気や肩の痛みに襲われて、うだうだしたり、身体の不調を愚痴ったりして、一日が終わってしまう。そして自己嫌悪。今日はちっとも進まなかったから明日はがんばるぞう、と思っても、明日はむしろ今日やらなかった分だけ仕事が滞っているわけで、今日以上に気力が出ることはありえない。
ちなみにこれは、とくに生産的な活動のように、脳を酷使する仕事にいえる傾向だ。不都合なことに、ゲームとかWebとか、非生産的な活動ほど延々と続けることができたりする。可処分時間は仕事の密度にかかわらず一定だから、こういう拒否反応が出るようになると、可処分時間を埋めるべく、ゲームとかWebとか、とにかく何か後で後悔しがちなことに精を出してしまう。
そこで今日からは、会社での仕事時間も集中力の維持できる細かい単位で区切ってみることにした。単位は1時間30分。続けて同じ仕事をする場合でも、1時間30分経ったら必ず小休止を入れる。1サイクルの間は、できるだけ割り込み的な仕事(メールの返信とか)は割けて、次のサイクルで処理する。
こうすれば、午前中2サイクルと午後3~4サイクルになるわけだが(もちろん残業なんてものは考慮しない)、こうして単位を区切ることで、作業時間の見積もりもつけやすくなるはずだ。今週中に終わらせるためには1サイクルでこれだけこなさなければならないけど、それは物理的に不可能だから、あきらめる。とか。あきらめないでダラダラ続けても、アウトプットは同じですから!
起床後、朝食をとりながら中国語の復習(30分)
↓
エウレカセブン(30分)
↓
掃除しながら中国語ヒアリング(1時間)
↓
プリキュア(30分)
↓
中国語(1時間30分)
↓
確率論の教科書を読む(2時間)
↓
メール書いたり(30分)
↓
昼食、昼寝(1時間30分)
↓
なぜかCプログラミング(3時間)
↓
ディナー(2時間)
↓
Cの続きをやって、終身(1時間)
社会人になってやってきた仕事っていうのは、(そう遠くない)納期までに終わらせるような成果仕事が中心だった。そのため、どうしても、例えば今日から10日間はこの仕事にかかりきりにならなきゃいかん、ってことになる。これが精神的につらい。しかも、その仕事で得ることができる知見は、その仕事を納品した後で再び繰り返されることが少ないから(しばらくは見たくもない!)、自分のなかで蓄積されづらい。
一方、学生のころは、毎日の日中が1時間30分~2時間に区分されていた。少なくともタテマエでは、その間は一つの講義や演習に集中する。各単位の境界は15分から20分の小休憩で区切られていて、連続する単位でまったく異なる内容の講義や演習に参加することも多い。そして、そのパターンが少なくとも数ヶ月は継続し、その間に得られた知見は、高々テストに通る程度には蓄積される。いちおう断っておくけど、テスト前にだけ詰め込みするようなケースは想定していない。
今になって考えてみると、人間が集中力を維持できる時間の限界は経験的にも2時間くらいだから、この区分はかなり効率的だったんじゃないだろうか。だいたい、人間は同じことを延々とやっていると飽きるし、飽きれば効率は悪くなるし、効率が悪くなれば出来はひどくなるし、フラストレーションもたまるし、仮に最初は面白かったものでも、だんだん苦痛になってくる。そうすると、一段落ついてから再び同じ物事に取り組むのを身体が拒否するようになる。再開しようとすると強烈な眠気や肩の痛みに襲われて、うだうだしたり、身体の不調を愚痴ったりして、一日が終わってしまう。そして自己嫌悪。今日はちっとも進まなかったから明日はがんばるぞう、と思っても、明日はむしろ今日やらなかった分だけ仕事が滞っているわけで、今日以上に気力が出ることはありえない。
ちなみにこれは、とくに生産的な活動のように、脳を酷使する仕事にいえる傾向だ。不都合なことに、ゲームとかWebとか、非生産的な活動ほど延々と続けることができたりする。可処分時間は仕事の密度にかかわらず一定だから、こういう拒否反応が出るようになると、可処分時間を埋めるべく、ゲームとかWebとか、とにかく何か後で後悔しがちなことに精を出してしまう。
そこで今日からは、会社での仕事時間も集中力の維持できる細かい単位で区切ってみることにした。単位は1時間30分。続けて同じ仕事をする場合でも、1時間30分経ったら必ず小休止を入れる。1サイクルの間は、できるだけ割り込み的な仕事(メールの返信とか)は割けて、次のサイクルで処理する。
こうすれば、午前中2サイクルと午後3~4サイクルになるわけだが(もちろん残業なんてものは考慮しない)、こうして単位を区切ることで、作業時間の見積もりもつけやすくなるはずだ。今週中に終わらせるためには1サイクルでこれだけこなさなければならないけど、それは物理的に不可能だから、あきらめる。とか。あきらめないでダラダラ続けても、アウトプットは同じですから!
2005/08/18
Joelさんは Painless Functional Specifications のなかで、ソフトウェアを開発するのにあらかじめ機能仕様(技術仕様書ではない)を整理することが重要だと強調している。とくに再三にわたって強調しているのは、コードを書く前に機能仕様書をまとめることで「いらん機能盛りだくさん」に陥るのを回避できる、という側面だ。ソフトウェアの話はこれでおしまい。
自分自信の機能仕様書を書くのはどうだろうと思った。人間だってひとつの機械であるとか、そういうしょっぱいことを言うつもりはない。ただ、ほら、どうも今の自分は「いらん機能盛りだくさん」になってる気がするし、いらん機能の追及で社会へのリリースが遅れたのも事実だし、いま現在だって新しいバージョンのロードマップが描けてない。これはきっと、いわゆるひとつの ゴンゾー だ。
さっそくJoelさんにならって、オレ機能仕様書を書いてみよう。
したがって、この仕様書は完成版ではない。実現可能性に応じて随時更新される。この仕様書が完成するポイントは K 自身で決めるものとする。
K2の最近の仕事は、特殊な商品のトレードを支援するシステムの開発とメンテナンスである。これはソフトウェア製品ではなく、だからエンドユーザへのサポートもいらない。会社の別な人間が、このシステムを使って収益を上げてくれる。このシステムにはちょっとした数学が応用されており、それは K2 にも理解できる程度の本当にちょっとした原理に過ぎないのだけど、素晴らしい成果をあげてくれる。
現に、あえて文法学習を避けて例文の暗誦ばかり続けてきた中国語は、このところ日常の場面でも自然に口をついて出るようになってる。同様なこころがけをもってしてリハビリと技術の洗練を続けること。
Joelさんの言いつけどおり、軽口を混ぜて書いてみた。
自分自信の機能仕様書を書くのはどうだろうと思った。人間だってひとつの機械であるとか、そういうしょっぱいことを言うつもりはない。ただ、ほら、どうも今の自分は「いらん機能盛りだくさん」になってる気がするし、いらん機能の追及で社会へのリリースが遅れたのも事実だし、いま現在だって新しいバージョンのロードマップが描けてない。これはきっと、いわゆるひとつの ゴンゾー だ。
さっそくJoelさんにならって、オレ機能仕様書を書いてみよう。
概要
この仕様書では Keiichirou Shikano(以下K)の次期バージョン(以下K2)に理想とされる機能についてまとめる。実現可能性とは異なる場合がある。実現可能性については別に考察する、っていうか、あとから勝手に思い知れ!>自分したがって、この仕様書は完成版ではない。実現可能性に応じて随時更新される。この仕様書が完成するポイントは K 自身で決めるものとする。
シナリオ
K2 の生活。奥様や両親といった容易に特定できる個人とのシナリオではない。これはあくまでもマクロな社会における仕様書なんだから。シナリオ1:勤め先
K2 は遅刻や居眠りはしない。基地外じみたミスをすることもあるが、たいていの仕事はソツなくこなす。一見するとくそマジメっぽいが、付き合いはそれほど悪くない。ただし、群れるのと馴れ合いが嫌いなので、体育会系の付き合いは丁重にお断りする。どちらかというとリベラル寄りに物事を考える。(ここまでは旧バージョンと同じ。好ましかったと思われるポイントをいじる必要はない)K2の最近の仕事は、特殊な商品のトレードを支援するシステムの開発とメンテナンスである。これはソフトウェア製品ではなく、だからエンドユーザへのサポートもいらない。会社の別な人間が、このシステムを使って収益を上げてくれる。このシステムにはちょっとした数学が応用されており、それは K2 にも理解できる程度の本当にちょっとした原理に過ぎないのだけど、素晴らしい成果をあげてくれる。
シナリオ2:オフ
K2は17:00前には帰宅する。ミニマルな再生装置で音楽を聴く。休日にはビリヤードに出かける。奥様と食事に出かける。子どもがいるかもしれない。ピアノをひく。シーズンオフになると友達と人気のいない山や海や温泉へいく。年に数回は台湾に行ってお茶を買い込んでくる。気が向いたら小さなスポーツカーでドライブに出る。サポートしないこと
このバージョンでは以下の機能はサポートしない:- 18時間労働、および、おかしな企業への雇用
- ひきこもり、または、モラトリアム
- ネクタイ、印鑑、形骸化した書類仕事、請負
- 理論数学(いまさら研究者は目指さないこと)、ビジネス理論(MBAとか)、IT系
- 英会話スクール、通信教育
- 日本で子育て
- マンション購入
フローチャート
現在の仕事をきちんとやりつつ資産運用
↓
並行して、未熟な技術のリハビリと習得(数学と英語とコンピュータサイエンスと中国語)
刺激メモ:必要ならUSへ行くことも検討すること
↓
転職または起業
現在の仕事と資産運用
やるべきこと、やりたいことが残っているので、数年は転職しない。しかし給料は少ない(少なすぎる!)ので、その間にきちんと運用して資金を用意する。未熟な技術のリハビリと習得
旧バージョンの K には、知識はそこそこあるものの、技術力が決定的に足りない。K2の開発では、これまでの知識偏重な勉強を改めて、意識的にトレーニングに勤めること。数学とか英語は技術ですから!(学生の頃にこれに気づいてればねえ。へたに講義の理解が速くてテストでも成績を取れてたもんだから、訓練サボって他の学部の授業ばっかり受けちゃったり、専門外の専門書ばっかり読んじゃってた。いまの時代はインテリで食ってけるもんじゃない)現に、あえて文法学習を避けて例文の暗誦ばかり続けてきた中国語は、このところ日常の場面でも自然に口をついて出るようになってる。同様なこころがけをもってしてリハビリと技術の洗練を続けること。
睡眠時間について
仕事と並行していろいろやるためには睡眠時間を減らすしかない。睡眠時間もトレーニングできるので、4時間30分を目標に段階的に減らしていく(毎月30分ずつ縮めていく。冗談じゃないよ)。今のところ、それまで23:00-6:30だった睡眠が23:30-5:30くらいまで短縮できている。一日10時間も寝てる場合じゃない。未解決のリスク
- 年齢
- 金
Joelさんの言いつけどおり、軽口を混ぜて書いてみた。
2005/08/17
自分は、精神が不安定でそこはかとない不安に駆られているときに、愚痴りながら出口を探しているような気がする。例えば日記を書いているうちに、そこはかとない不安だったものがだんだんと形を持った不安として構成されて、場合によっては気が晴れる。もちろん、壁が大きすぎることに気づいて打ちひしがれる場合もある、っていうか、そんなことのほうが多いわけだが。
精神が健全で集中力を維持できる状態にあると、日記を書く必要がなくなってきちゃう。でも、それじゃあ日記を開くたびに愚痴ばかり再現されるわけで、まるでウルトラネガティブな人間に見えてしまう。読むほうも滅入るやね。
さてどうしたものだろう。
ところで、ギャンブラーの破産の問題に悩んでいるわけです。
一連のゲームの結果を ωz とし、その上の確率分布を p(ωz) とすると、∑ p(ωz) = 1 (z で始めるゲームの全体は 1)なのかどうか? そうあってほしいんだけど、ゲームが無限に続く確率が 0 じゃない場合は違うらしい。どうして?
実際には、ゲームが無限に続く確率が 0 であることは簡単に証明できるんだけど、ゲームが無限に続く確率≠ 0 だと確率分布の総和が 1 にならないことが証明できない。
ちなみにこれはシナイの確率論の教科書に出てくる問題で、この本には、ゲームが無限に続く確率≠0 だと確率分布の総和が 1 にならないことが当たり前のように一行で書かれている。現役の頃は、そういう説明不足の教科書を読むと劣等感を感じたものだ。でも、いまは感じない。むしろ、こういう行間を埋めながら読むのが楽しい(えーと、上の話はまだ埋まってないんだけどさ)。楽しくてしょうがない。
あと、あんまり関係ないけど、この本は誤植がぼろぼろ見つかるので軽い優越感すら感じる。これは職業病か。にしても、この本は本当にクリティカルな誤植が多いのでがっかりです。ロシア語から英語に翻訳されるときに誤植が多発したんだろうなあ。
結局また愚痴じゃん。
精神が健全で集中力を維持できる状態にあると、日記を書く必要がなくなってきちゃう。でも、それじゃあ日記を開くたびに愚痴ばかり再現されるわけで、まるでウルトラネガティブな人間に見えてしまう。読むほうも滅入るやね。
さてどうしたものだろう。
ところで、ギャンブラーの破産の問題に悩んでいるわけです。
- 所持金 z で勝負を開始
- 1回勝ったら所持金が +1
- 1回負けたら所持金が -1
- 所持金が a になったら勝利、0 になったら負け
一連のゲームの結果を ωz とし、その上の確率分布を p(ωz) とすると、∑ p(ωz) = 1 (z で始めるゲームの全体は 1)なのかどうか? そうあってほしいんだけど、ゲームが無限に続く確率が 0 じゃない場合は違うらしい。どうして?
実際には、ゲームが無限に続く確率が 0 であることは簡単に証明できるんだけど、ゲームが無限に続く確率≠ 0 だと確率分布の総和が 1 にならないことが証明できない。
ちなみにこれはシナイの確率論の教科書に出てくる問題で、この本には、ゲームが無限に続く確率≠0 だと確率分布の総和が 1 にならないことが当たり前のように一行で書かれている。現役の頃は、そういう説明不足の教科書を読むと劣等感を感じたものだ。でも、いまは感じない。むしろ、こういう行間を埋めながら読むのが楽しい(えーと、上の話はまだ埋まってないんだけどさ)。楽しくてしょうがない。
あと、あんまり関係ないけど、この本は誤植がぼろぼろ見つかるので軽い優越感すら感じる。これは職業病か。にしても、この本は本当にクリティカルな誤植が多いのでがっかりです。ロシア語から英語に翻訳されるときに誤植が多発したんだろうなあ。
結局また愚痴じゃん。
2005/08/16
2005/08/10
2005/08/08
僕はCDを生成して音楽を聴くことが多い。自分が利用できる環境でもっとも音楽を楽しめる方法がCDだから。金があればLPがいい。
CDプレーヤーは、もう10年以上 CDP-XA5ES をだましだまし使っている。あちこち機械的にガタがきてるんだけど、とくに不満もないんだよねえ。よく言えばフラット、悪く言えばシャリシャリな音の印象(この傾向はスピーカーの直前までの全ての機材について当てはまる)。
アンプは 自作 。真空管アンプだけど、全段差動プッシュプル という新しめの回路で、「真空管」というキーワードからイメージされる甘ったるい感じの音はしない。そういう回顧主義で真空管を使っているわけではないんです。球は 6EM7 で、写真では何社かの製品が混在しているけど、現在は Sylvania に統一した。たぶん材料費は6万円かかってない。
スピーカーは FOSTEX の FE-85K というユニットを E82 というハコに無理やりはめたもの。実売合計はペアで1万5000円くらい。ちなみにスピーカーケーブルは某所でもらったアクロテックの6N-S1040なんだけど、これってたぶんもう手に入らないんじゃなかったけ?
さて、オタク話はこれくらいにして、墓場にまで持っていくであろうCDを2枚だけ。
When Did You Leave Heaven / Lisa Ekdahl
Lisa Ekdahl はスウェーデンのシンガーソングライターで、このCDは彼女が Jazz のスタンダードを歌ったもの。舌っ足らずの英語とバックのトリオのからみが完璧。選曲も完璧。とくに Lush Life 。脳内でも日々再生しまくり。
Images / Debussy / Jacques Rouvier
さすがにもう絶版かもしれないので、リンク先の商品が別物である可能性大(ドビュッシーの『影像1』『影像2』『忘れられた影像』『版画』『ピアノのために』が収められていて、演奏は Jacques Rouvier で、レーベルが DENON で、という条件で絞ったら、これしか見つからなかった)。『影像』も『版画』もいろんな人が演奏したいろんな版があるけど、個人的にはこれが一番しっくりなじむ。やっぱり脳内でも再生しまくり。
いずれも、すでにスコアが頭に浮かぶくらい聴きまくってきた。だから、実際に再生していないときでも、気が付くと脳内でリピートがかかっていたりする。それでも聴き飽きず、ことあるごとにCDを引っ張り出してくるのは、たぶん好きな女の子の姿を想像しているだけでは満足できないのに似ていると思う。実物に会いたいし、そうでなくても写真くらいは見たい。それもピンボケしてないやつ。だから、好きな音楽については「聴く」という経験を渇望するし、どうせ聴くなら予算とスペースの許す限りベストな状態を聴き直したい。というわけで、あえて再生方法も強調してみたのでした。
もちろん、この2枚以外にも好きなCDや曲はたくさんある。でも、墓場まで持っていくほど好きかっていうと、今のところはこの2枚に限られそう。
CDプレーヤーは、もう10年以上 CDP-XA5ES をだましだまし使っている。あちこち機械的にガタがきてるんだけど、とくに不満もないんだよねえ。よく言えばフラット、悪く言えばシャリシャリな音の印象(この傾向はスピーカーの直前までの全ての機材について当てはまる)。
アンプは 自作 。真空管アンプだけど、全段差動プッシュプル という新しめの回路で、「真空管」というキーワードからイメージされる甘ったるい感じの音はしない。そういう回顧主義で真空管を使っているわけではないんです。球は 6EM7 で、写真では何社かの製品が混在しているけど、現在は Sylvania に統一した。たぶん材料費は6万円かかってない。
スピーカーは FOSTEX の FE-85K というユニットを E82 というハコに無理やりはめたもの。実売合計はペアで1万5000円くらい。ちなみにスピーカーケーブルは某所でもらったアクロテックの6N-S1040なんだけど、これってたぶんもう手に入らないんじゃなかったけ?
さて、オタク話はこれくらいにして、墓場にまで持っていくであろうCDを2枚だけ。
When Did You Leave Heaven / Lisa Ekdahl
Lisa Ekdahl はスウェーデンのシンガーソングライターで、このCDは彼女が Jazz のスタンダードを歌ったもの。舌っ足らずの英語とバックのトリオのからみが完璧。選曲も完璧。とくに Lush Life 。脳内でも日々再生しまくり。
Images / Debussy / Jacques Rouvier
さすがにもう絶版かもしれないので、リンク先の商品が別物である可能性大(ドビュッシーの『影像1』『影像2』『忘れられた影像』『版画』『ピアノのために』が収められていて、演奏は Jacques Rouvier で、レーベルが DENON で、という条件で絞ったら、これしか見つからなかった)。『影像』も『版画』もいろんな人が演奏したいろんな版があるけど、個人的にはこれが一番しっくりなじむ。やっぱり脳内でも再生しまくり。
いずれも、すでにスコアが頭に浮かぶくらい聴きまくってきた。だから、実際に再生していないときでも、気が付くと脳内でリピートがかかっていたりする。それでも聴き飽きず、ことあるごとにCDを引っ張り出してくるのは、たぶん好きな女の子の姿を想像しているだけでは満足できないのに似ていると思う。実物に会いたいし、そうでなくても写真くらいは見たい。それもピンボケしてないやつ。だから、好きな音楽については「聴く」という経験を渇望するし、どうせ聴くなら予算とスペースの許す限りベストな状態を聴き直したい。というわけで、あえて再生方法も強調してみたのでした。
もちろん、この2枚以外にも好きなCDや曲はたくさんある。でも、墓場まで持っていくほど好きかっていうと、今のところはこの2枚に限られそう。
2005/08/07
どんな音楽を聴くのかという質問に答えるのにいつも苦労する。耳にするきっかけがあって、気に入れば、なんでも聴きます。でも、そんな答えで納得してくれる人は少ないんだよね。
この質問に直面する機会は2つに大別されると思う。もっとも多いのは、単にその場の会話をつなぐための話題として尋ねられる場合。今日は暑かったよねえ、と同じ目的なので、相手が期待するであろう返答をしておけばいい。つまり、真剣に答える必要はない。
困るのは、この質問にそれ以上の意味合いをかぶせてこられる場合だ。僕らの社会における「お前が日々聴いている音楽はなにか?」という質問には、中東において「お前の神はなんだ?」と詰問するのと同じ役割が持たされている。それで殺されることはないだろうが、答えによっては、質問者との関係が決定してしまうこともあり得る。宗教が自爆テロを可能にするような意味で音楽が重要な意味を持っている人間もいるってことがいいたいんじゃない。そういうとりたてて極端な話ではない。
個人が属するコミュニティは暗黙のうちに区分されている。もちろん主観的に。そして、多くの人にとって、コミュニティ間の境界は意外に厳格に守られていたりする。だって、自分と興味を異にする人とは話もしないし、それ以前に話をするきっかけもない。70年代生まれの自分が、ZEPPELIN をリアルタイムで生きてきたはずなのに耳にしたこともないオトナと打ち解けられる?
実際には打ち解けられる。それは、別にもっと面白いことを共感できるだろうから。だいたい、僕は別に ZEPPELIN のフリークでもないし。ただ、リアルタイムで音楽を生きてこられた人が羨ましいのは事実だけど。なんか話が曲がりだしたな。ようするに、人間は(少なくとも僕は)、聴いている音楽でも暗黙のコミュニティ境界を引いている。それだけじゃないし、そんなのはむしろコミュニティを決定する因子としては極小だけど、0には収束しない。
だから、「お前の favorite な音楽なにか」という質問にナーバスにならざるを得ないことがある。彼らに対しては真剣に回答しなければならない。しかも慎重に。でも、いつも精神誠意回答できるわけじゃないんです。なぜなら、耳にするきっかけがあって、気に入れば、なんでも聴くから。「どうやって音楽を聴いてるの?」って質問なら答えやすいんだけどなあ。しかも個人的には、音楽の種類よりも、音楽に対する態度のほうが重要だと思う。何に重要かなんて知らないけどね。
この質問に直面する機会は2つに大別されると思う。もっとも多いのは、単にその場の会話をつなぐための話題として尋ねられる場合。今日は暑かったよねえ、と同じ目的なので、相手が期待するであろう返答をしておけばいい。つまり、真剣に答える必要はない。
困るのは、この質問にそれ以上の意味合いをかぶせてこられる場合だ。僕らの社会における「お前が日々聴いている音楽はなにか?」という質問には、中東において「お前の神はなんだ?」と詰問するのと同じ役割が持たされている。それで殺されることはないだろうが、答えによっては、質問者との関係が決定してしまうこともあり得る。宗教が自爆テロを可能にするような意味で音楽が重要な意味を持っている人間もいるってことがいいたいんじゃない。そういうとりたてて極端な話ではない。
個人が属するコミュニティは暗黙のうちに区分されている。もちろん主観的に。そして、多くの人にとって、コミュニティ間の境界は意外に厳格に守られていたりする。だって、自分と興味を異にする人とは話もしないし、それ以前に話をするきっかけもない。70年代生まれの自分が、ZEPPELIN をリアルタイムで生きてきたはずなのに耳にしたこともないオトナと打ち解けられる?
実際には打ち解けられる。それは、別にもっと面白いことを共感できるだろうから。だいたい、僕は別に ZEPPELIN のフリークでもないし。ただ、リアルタイムで音楽を生きてこられた人が羨ましいのは事実だけど。なんか話が曲がりだしたな。ようするに、人間は(少なくとも僕は)、聴いている音楽でも暗黙のコミュニティ境界を引いている。それだけじゃないし、そんなのはむしろコミュニティを決定する因子としては極小だけど、0には収束しない。
だから、「お前の favorite な音楽なにか」という質問にナーバスにならざるを得ないことがある。彼らに対しては真剣に回答しなければならない。しかも慎重に。でも、いつも精神誠意回答できるわけじゃないんです。なぜなら、耳にするきっかけがあって、気に入れば、なんでも聴くから。「どうやって音楽を聴いてるの?」って質問なら答えやすいんだけどなあ。しかも個人的には、音楽の種類よりも、音楽に対する態度のほうが重要だと思う。何に重要かなんて知らないけどね。
2005/08/03
今週は弊社の公開メール宛にやってくるメールを自分の作業用PCでさばかなければいけない。スパムの多さにうんざりするのは想定内なので一向にかまわない。Thunderbird のジャンクメール機能はけっこう優秀だし、ちょっとした中国語の勉強にもなるんだなこれが。ただ、某所のメールリテラシの低さをいやおうなしに見ることになってイライラするのがつらい。ふだんこの作業をしている(させられている)方の心痛も察せられて、ますます嘆かずにいられない。しかし嘆いたのは一瞬で、たんたんと転送だけこなす覚悟をした。ロボット。
最後の一文はロボットに対する差別ではないので左の方々にはくれぐれも誤解をしないようにしてください。
最後の一文はロボットに対する差別ではないので左の方々にはくれぐれも誤解をしないようにしてください。
2005/08/02
昨日の続き。
かといって、「次の景色」がまったく見られない状態が続くと、やっぱりフラストレーションになるわけですよ。だから、映画やゲームやマンガやアニメのような比較的安直に「次の景色」を見せてくれる媒体に逃避する。『バイオハザード』とか。
元気なときは、数学や物理の教科書を読んで「次の景色」を楽しめるようなときもある。しかし、基地外みたいに仕事して帰ってきた後なんかでは、概念や数式を「景色」に変換する処理が脳内で追いつかず、「次の景色」どころか「今の景色」すら見えない。目隠しをして、さらにガラス黒塗りの車に揺られている感じ。うんうん言いながら読み進めても、なんとか目隠しの隙間から覗ける景色さえもが絶望、みたいな。
数学書ほどでないにせよ、小説(というか文学)も、「次の景色」を提示してくれる媒体のなかでは脳や身体や時間にコストがかかる部類だと思う。そんなわけで、読まない。「もう小説には飽きたYO」とかいってうそぶく。おのずと書店の文芸書のコーナーから遠ざかる。小説のレビューとかWebで見かけてちょっと読んでみても、やっぱり小説はコストと満足とが平衡しないなという重い気分になって、さらに別の作品に手を伸ばすこともない。面白い小説に対する意欲がわかないから、情報が指数関数的に少なくなり、新しい小説を読む機会が消失して、もうすっかり小説に興味がなくなる。
この傾向は、「小説を読まない」という状態だけを見るなら、単に嗜好の問題で片付く話だろう。しかし、もともと好きだった「小説を読む」という活動が、脳や身体や時間へのコストから萎縮しているとすれば、そういう精神状態に問題があると自覚しなきゃだめでしょ。
この週末、『ラス・マンチャス通信』という小説を読んで、この傾向から脱却できそうな気がした(これが本題)。この小説が小説に「次の景色」を渇望できる心理状態を思い出させてくれたのか、そういう心理状態になったタイミングでこの小説を読むことができたのか、その辺りは不明だけど、とにかくいようにおもしろかった。そんなわけで、次に読む小説を物色中。
かといって、「次の景色」がまったく見られない状態が続くと、やっぱりフラストレーションになるわけですよ。だから、映画やゲームやマンガやアニメのような比較的安直に「次の景色」を見せてくれる媒体に逃避する。『バイオハザード』とか。
元気なときは、数学や物理の教科書を読んで「次の景色」を楽しめるようなときもある。しかし、基地外みたいに仕事して帰ってきた後なんかでは、概念や数式を「景色」に変換する処理が脳内で追いつかず、「次の景色」どころか「今の景色」すら見えない。目隠しをして、さらにガラス黒塗りの車に揺られている感じ。うんうん言いながら読み進めても、なんとか目隠しの隙間から覗ける景色さえもが絶望、みたいな。
数学書ほどでないにせよ、小説(というか文学)も、「次の景色」を提示してくれる媒体のなかでは脳や身体や時間にコストがかかる部類だと思う。そんなわけで、読まない。「もう小説には飽きたYO」とかいってうそぶく。おのずと書店の文芸書のコーナーから遠ざかる。小説のレビューとかWebで見かけてちょっと読んでみても、やっぱり小説はコストと満足とが平衡しないなという重い気分になって、さらに別の作品に手を伸ばすこともない。面白い小説に対する意欲がわかないから、情報が指数関数的に少なくなり、新しい小説を読む機会が消失して、もうすっかり小説に興味がなくなる。
この傾向は、「小説を読まない」という状態だけを見るなら、単に嗜好の問題で片付く話だろう。しかし、もともと好きだった「小説を読む」という活動が、脳や身体や時間へのコストから萎縮しているとすれば、そういう精神状態に問題があると自覚しなきゃだめでしょ。
この週末、『ラス・マンチャス通信』という小説を読んで、この傾向から脱却できそうな気がした(これが本題)。この小説が小説に「次の景色」を渇望できる心理状態を思い出させてくれたのか、そういう心理状態になったタイミングでこの小説を読むことができたのか、その辺りは不明だけど、とにかくいようにおもしろかった。そんなわけで、次に読む小説を物色中。
2005/08/01
学生のころは狂ったように読み物をあさったけど、この5~6年の間に新たに読了した小説は5冊に満たないはずだ。読む時間がないほど忙しかったわけではなく(そういうときもあったけど)、絶対的な読書の分量が減ったわけでもない。単に興味がなかった。
おそらく、この不毛時代の最初に読んだ小説は、『百年の孤独』の新しいほうの翻訳じゃなかったかと思う。もともと好きな小説で、旧訳はさんざん読んでたけど、新訳が出たのでそっちも読んだ。馬鹿みたいにおもしろいことを再確認した。僕が読みたいのは、こういう「現実のはじっこのほうの世界」観なんだとしみじみ思った。つまり、自分にとって小説のページをくるためのモチベーションは、中学生が自転車でひたすら遠くまで走りたがるのと同じ「次の景色が見たい」という素朴な感傷なんじゃないか。で、いったんそんな気がすると自己暗示にかかってしまい、何を読み始めても先に進むモチベーションが維持できなくなってしまう。だって、『百年の孤独』以上に「次の景色」を提示してくれる作品なんて滅多にないんだもん。
おそらく、この不毛時代の最初に読んだ小説は、『百年の孤独』の新しいほうの翻訳じゃなかったかと思う。もともと好きな小説で、旧訳はさんざん読んでたけど、新訳が出たのでそっちも読んだ。馬鹿みたいにおもしろいことを再確認した。僕が読みたいのは、こういう「現実のはじっこのほうの世界」観なんだとしみじみ思った。つまり、自分にとって小説のページをくるためのモチベーションは、中学生が自転車でひたすら遠くまで走りたがるのと同じ「次の景色が見たい」という素朴な感傷なんじゃないか。で、いったんそんな気がすると自己暗示にかかってしまい、何を読み始めても先に進むモチベーションが維持できなくなってしまう。だって、『百年の孤独』以上に「次の景色」を提示してくれる作品なんて滅多にないんだもん。
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