2005/10/27

タイピング時のヘンな癖に気が付いた。"1" を入力するつもりで "a"、"2" を入力するつもりで "s" を入力しがち。しかも! "2" と "s" は形が似ていやがるので、画面を見ている場合でも発見が遅れる。で、そのまま評価すると "ERROR: unbound variable: s" とかいわれて焦るわけよ。
qwerty 配列の弊害か。

2005/10/25

商売を見れば、貪欲に広い市場へリソースを投入するのは当たり前。でも、その広い市場で勝つことにメリットを見いだせないとしたら、どうよ。もっと大義あるやり方でもって、今の市場で食っていくだけの道を選びたくない? 本当は大義みたいな漢臭い表現は使いたくないんだが、ここでは「大義」が重要。本当に「食っていくだけ」じゃ、まったくモチベーションにならない(あしからず、これは「食っていく」ことさえ難しい世界の最貧層を非難する表現ではありません。この国で年収400万未満で生きることにだって、言い知れないやりきれなさがある)。つまり何がいいたいかというと、大衆市場には商売上のうまみはあるが、どのみちつらい仕事なら、より洗練された市場の顧客を選びたいってこと。その選択もまた一つの価値であるということ。もちろん、何を洗練されていると見なすかは、オレ判断でお願いいたします。
いや、業務として割り当てられれば何でもするし、何でもしてきたんだけどね。だから、そんなに片意地なことをいっているつもりはなくて、あくまでも個人的な価値をどこにおくかって話。

この12月にかけての仕事は、ひさびさの Real Work

2005/10/21

素数の魅力を説明してほしいといわれた(一部編集)。そんなこといわれてもなあ。「素敵な数」なんだから魅力的にきまってるじゃん。

ヘンなやつは、付き合っていて楽しい。いわゆる「底が見えるやつ」は面白くない。そうはいっても、まるっきりとっつき悪いやつと付き合う気にもならない。ある程度までは自分の常識に即していて、それなのに「そんな一面もあったのかよ……」と呆れさせてくれるのがいい。わけの分からなさがちょうどいいと、魅力を感じる。
たぶん、素数には、そういう「ちょうどいいわけの分からなさ」がある。「10」にはない魅力が、「23」にはある。

ついでにいうと、一番魅力がないのは「42」だ。

2005/10/20

ひさぶりに強烈に楽しい打ち合わせだった。参加いただいた方々、長時間お疲れさまでした。
朝4時に起きるようになったので、エスプレッソメーカーを買ってみた。

Bialetti MOKA EXPRESS
http://www.bialetti.it/it/catalogue/scheda.asp?id_cat=24&pag=1

安い、うまい、簡単。
実際に使ってみるまで知らなかったんだけど、これって紙のフィルターとか一切不要なのね。ポット全体が2つに分かれて、その間に漏斗形のパーツがあるという構造なんだけど、ポットの下半分に水を満たし、漏斗部分に極細挽にした豆を入れたら、あとは火にかけるだけ。5分と待たずにポットの上部にエスプレッソコーヒーがたまる仕組み。
豆は、 やなか珈琲店 で焙煎して挽いてもらった。家の近くにも会社の近くにもあって、前を通るたびに香りにやられていたので、先週末の土曜日、休出したついでに意を決して入ってみた。ブレンドが店内で飲めることがわかった。しかも150円。しかも濃厚。

朝コーヒーを飲むなんていう習慣はなかったけど、やってみるとクセになる。自分で淹れるのがポイントかな。淹れてるときの香りがたまらない。実はこれ、中国茶でも同じで、あれもサービスしている本人が実は一番の役得なのだ。相手へのサービスが本人にとって喜びになるってのは、仕事の本質じゃないだろうかね。

こうやって話にオチを付けたがるのはよくない。

2005/10/19

携帯デバイスの必要性について議論になると、いつも出てくる意見。「ケータイでいいじゃん」
ちがうんだよ。最低でも qwert じゃないとやなんだよ。qwert が人間工学的にどうこうとかの議論はおいとくけど、とにかくあのケータイの文字入力は、どんなに予測入力があっても、表現を制限したり特殊化したりすることをデバイスによって(暗に)強いられている。たぶん。あれで十分だと思っているのは、実情は思わされているだけで、単に他の選択肢がないから十分だと感じるにすぎない。擬素数を疑わずに素数判定をしてるみたいなもんだね。ちょっと違うか(ぜんぜんちがう)。
以前は、ケータイの文字入力でも結局は人間のほうが慣れちゃうからいいんじゃね、と楽観視してたけど、やっぱりダメだということに気づいた。自分が慣れたくないからダメなんじゃなく、表現の多様性のためにダメだ。qwertにも、いや、そもそもテキストデータ化にも表現の多様性を縮退させる傾向があるかもしれないけど、だからってデバイスの制限によって縮退が加速させられていいのか?
表現の多様性と利便性(コミュニケーション可能性)はどこかでバーターする。とにかく多様ならいいってものでもない。その点、書き言葉、つまりテキストデータのみで扱える範囲の表現は、歴史的にもいろいろあって(右翼:法令とか公文書とか←→左翼:俳句とかジョイスとか、そのたもろもろ。宗教の教典もこの軸では左翼だね)、あるいは共同体における教育とか文化の後ろ盾もあって、比較的センスがいいところでバランスできる手段だと思う。まあ、このバランスだって、そういう歴史とか教育とか文化に基づいているからという意味でしかセンス云々を語ることはできないけど、それはそれでしかたないっしょ。だって表現は、歴史とか教育とか文化に基づくコードの塊を抽象化するものなんだもの。

2005/10/17

なんで TeX には両方向の斜め矢印 がないんだ。
\def\neswarrow{\ooalign{{$\nearrow$} \crcr {$\swarrow$}}}
\def\senwarrow{\ooalign{{$\searrow$} \crcr {$\nwarrow$}}}

2005/10/12

根本から勘違いしている可能性があるけど、

|- T ( x=y <-> y=x ) (ただしT はTheorem)
∵ |- T ( x=y -> x=x -> y=y -> y=x )

この理屈が成立するには、p を T における述語として、 |- T ( p3xxy -> y), |- T ( p3yxy -> x ) となるp3 が必要だと思うんだけど、これって自明なの?(少なくとも僕にとってはムズカシイ。) 「式中に1度しか出現しかない元を抽出できる」、さらには「式中である性質を持つ元だけを抽出できる」なんて、直感的には定理になるとは思えないんだけどねえ。
モチベーションの大小は、細かいところで静かに積み重なり、結果として大きな影響をもたらします。それが分かっていたって、結局コントロールできないんだけどさ。

2005/10/03

問題のある部分は日中に会議があることで、そこでのプレゼン(みたいな何か)がむやみに長い。自分が知っていることを話すのではなく、相手が聞きたいことを予測して話すのがプレゼンです。あと、他人の仕事を引き受けすぎという根本的な問題もある。

ところで昨日は交通博物館に行った。これはまさにあれだ、ノスタルジーとメカニカルと金属の融合。

2005/10/01

映画「銀河ヒッチハイクガイド」を観にいった。そもそも映画化を知った瞬間から、B級な出来に仕上っているに違いないと思いつつどうしても期待しちゃっていて、しかも、期待感でいっぱいになった脳が実物に接触すると、たいていがっかりする。そんなわけで、六本木に着いたころには、帰りにどうやって残念感を補填しようかなあとまで考えていた。
なのに、拍子抜けするくらい面白かった。オープニングから泣きそうになる。僕は、このオープニングの10分くらいを観るためだけにでも、もういちど映画館にいくね。DVDも買っちゃうんだから。
関心したのは、必ずしもマニア向けになっていないところ。2時間の興行映画としてシナリオや演出が相当ねられていて、これなら前提知識なしでも楽しめるはずだ。何よりテンポがいい。テンションのメリハリがはっきりしている。だから、笑いながら見ているうちに気が付いたら佳境で、もうじき終わりなのが残念でならない。もっと新しい景色をみせてください! ともあれ、続編へのフリもあったので期待しちゃおう。あと、Zooey Deschanelがむやみにかわいらしいことを付け加えておく。

原作を粗筋だけでも知っている人は絶対に劇場で観とくべきだと思う。むしろ、ふつーの人に見てもらいたいなあ。一般ウケしといたほうが続編の企画も通りやすいだろうから。だいたい、ろくにマスコミで宣伝していない気がするし、都区内で六本木でしか上映してないってどういうことよ。実際、今日も観にきてるのは明らかにソレっぽい人たちばかりで、土曜日のデートのダシにこの映画を選んでるような人たちは見当たらなかった。
Journalという単語が気になりだしたら止まらなくなってしまったので、タイトルを k16's note に変更します。ちなみに、これは報告ではなく、将来のための記録です。
最初にlivejournalを使っていて、さして気にもとめずにlivejournalでのデフォルトのタイトルを引きずってきたけど、どう見てもこれはjournalではない。しいていえば大学ノートに書きためておくような何か。

2005/09/29

よろしくお願いします。のタイプミスがはげしい。

丁しく尾根有g氏
丁しく尾根sマス。
よろしくお願いしまう
よろしくお願いします。
丁しく尾根貸しあしまう。
よろしくお願いします、

メールの文末にこういうのを見つけたら、てんぱってるなと思って見過ごしてやってください。それにしても丁しく尾根がってるな。

2005/09/28

同僚(っていうか先輩)のhsashimさんと歩いていると、よく「今すれちがった女性は鹿野さん好みじゃない?」ってふられるんですが、歩いているときに周りの人のことは見てないんです、すみません。で、そう返事をすると「どうせオマエは奥さんのことしか考えていないんだろう、この幸せボケが」とののしられる。

仮説1:僕は本当に幸せボケである
この仮説は半分正解で半分間違え。好きな奥様と暮らしているのは確かに幸せだが、それだけでボケていられたらブログロで心の排泄などしないのである。

仮説2:僕はただ単に周りの人を見ていない
自分ではこの仮説が正解だと思ってた。なぜなら、どこを見ているか意識しながら歩くと、決まって目の前の道路だけを見ていることに気が付くから。しかし冷静に思い返すと、昨日まで歩いてきた道路の景色を断片でも覚えているか? そんなことないわけで、むしろ通行人のこととか、見かけた車のこととか、町並みのことを覚えている。だから、僕は道路を「見て」はおらず、周りの人を「見て」いる。じゃあ、なんでhisashimさんが声をかけてきたときに、その指し示す女性を認識していないんだ?

仮説3:hisashimさんが妄想している、または枯渇している
ありえないとは言い切れない。しかしこれ以上考察を続けると人的被害が出かねないので思考中止。

仮説4:hisashimさんとは趣味が違う
人間は見たいものだけを見るので、彼が見ているものを僕が見ていないのは不思議ではない。でも、普段話している限りでは、そう大してズレているわけでもなさそうなんだけどなあ。


いずれの仮説も満足できる答えではないし、どうやって検証したらいいのかもわからないので、おしまい。

2005/09/26

結局、レンズを買ってしまった。

TAMRON:AF18-200mmF/3.5-6.3 XR Di II LD Aspherical [IF] MACRO (モデルA14)
http://www.tamron.co.jp/lineup/a14/index.html

シグマのと散々迷い、ヨドバシカメラでも決意が二転三転しながら、最後はゴールドポイントのパーセンテージでタムロンに決めた。だって27%もポイント還元だよ(昨日限り)。不純かもしれないけど、それだけ甲乙つけ難い製品だということ。技術力のあるメーカー同士が切磋琢磨している製品のユーザは幸せだね。
で、さっそく自宅で適当に何枚か撮影してみた。インドアばっかりでごめんなさい。

DSC_0077 DSC_0079 DSC_0082 DSC_0093 DSC_0084

さすがに200mm側だと手ぶれを抑えるのが大変。かといってD70の内臓ストロボを使おうにも、弱すぎて役に立たず。もっとも、どのみちフラッシュは使わないので、個人的には問題にならない。カメラを押さえつけて撮影するのみ。
写りは文句なし。芸術的というより工芸的だ。こういうのは好き。D70レンズセットの18-70mmと、18mm側で条件を同じにして撮り比べてみると、気持ち暖かい色見になる気がする。ただ、これはカメラのちっちゃい液晶画面で見比べたときの話で、Photoshopで開くと大差ない。あと、タムロンのほうが画角が正確っぽい。
何よりこのクラスのレンズの魅力は、ボディのサイズにあると思う。なにせ、D70レンズセットの18-70mmと変わらないわけで、もう積極的にこの18-70mmを使う理由がなくなってしまった。というわけで、これからはこっちを常用することにしよう。

2005/09/25

某所で知った「象られた力」(飛浩隆)を読む。そうとうおもしろい。4本の中編が収められていて、うち1本の「デュオ」以外は未来の宇宙を舞台に展開されるしっかりしたSFである。だから、必然的に設定や小物には趣向が凝らされているし、それに成功している。つまり、オタク的に面白い。その魅力は、現代を舞台にした「デュオ」にも溢れていて、それだけでも満足な一冊だった。もっとも、設定や小物が魅力的なのは、単にアイデアというよりも、その作中での生かし方の巧妙さにあるんだろう。ありきたりかもしれないネタを気持ち良く予想外の方向に引っ張っていってしまうストーリーと描写。
そういう、新しい世界を見せてもらう心地よさに加えて、いずれの作品にも個人的に共感できる視点があり、それも楽しむことができた。巻末の「解説」には「形と力の関係が云々」と書いてあるけれど、むしろ各作品に通底しているのは、力の背景にあるのが「個人」なのか「個人を越えた存在」(「死者」とか「宇宙」)なのか、その決定不能に抗している主人公(たち)を描くことなんじゃないだろうか。問題に対峙する主人公(たち)の解や行動は各作品ごとに異なっていて、その描き分け方が、うまい具合に魅力的なキャラクターづくりに貢献している。そういう意味では、この4本を選んできたのは正解だったと思う(ほかを読んだことはないけど、なんとなく)。
最後に表題作である「象られた力」の重箱をつつきたいわけですが、宇宙全体で活躍する建築家のハバシュの作品は、シジック以外の星系にもあるんじゃないだろうか? だとすると、シジックの歌が本編のような解釈をされることには無理があるような気がするんだけど…… それとも、リットン&ステインズビー協会がうまいことやってるんでしょうか。

2005/09/19

新婚のK宅へ。ひがなうだうだ過ごし、夜になってから多摩川の土手でひとしきり花火を燃やした。家庭用花火の火薬の匂いには、一日に対するノスタルジックと、季節に対するノスタルジックと、人生に対するノスタルジックとがごちゃまぜになっていて、無条件にはしゃぐにはつらい瞬間がある。だから、みんなが楽しんでいるのを端で見ているので十分なんです。それなら、はしゃげる。

2005/09/18

DSC_0025

金曜日は飲み友達(あえて)数名でトプカへ。思わず誕生日をお祝いしていただき、本当にありがとうございました。翌日は久しぶりに頭痛で目が覚めました。花を頂いたり、予期せぬ豪華なプレゼントを頂いたり、うれし恥ずかしなポラロイドを撮っていただいたりしましたが、何よりああして一緒に楽しむ機会をつくっていただいたことがたまらなく嬉しかったです。これからいろいろあると思いますが、末永くよろしくお願いします。

いただいたプレゼントたちの一部。

DSC_0036


ジムの写真はこちらからお楽しみください。
http://www.flickr.com/photos/k16/sets/966783/show/
どうやらSICP第1章の趣旨を勘違いしていたっぽい。しかも2重に。
いただいたコメントで紹介されている記事(Scheme:末尾再帰で木をトラバース)を読んで気が付いた一つ目の勘違いは、末尾再帰で書くことにより必ずしも効率がよくなるわけではないということ。それを意識してSICP第1章を読み直すと、確かにそんなことは書いてない。それどころか、式の処理モデルとインタプリタの実装とは別のはなしだって強調されてる。
もう一つの勘違いは、末尾再帰とiterativeなプロセスの混同。正確にいうと混同していたわけではなく、末尾再帰で書くことでiterativeに書いたことにもなると思いこんでいた。どっちも、勘違いの程度としてはたいしてかわらないので、いいわけにもならない。
結局、SICP第1章の目的は計算プロセスをより深く理解することであって、coolなプログラムを書くことではないんだろう。

以上を踏まえて、両替問題のiterativeバージョンに再挑戦。アイデアは、前回の項和を求めるプロシージャをiterativeに書こうというもの。このアイデアそのものは同じだけど、すこし頭がすっきりしたので問題がクリアに見えるようになった。

まず、一般に f の項和を求めるプロシージャが次のようにiterativeに書けることを確認。いちおう末尾再帰になっている。
;; Iterative sum
(define (sum f a z)
(define (sum-iter i summed)
(if (> i z)
summed
(sum-iter (+ i 1) (+ summed (f i)))))
(sum-iter a 0))

(sum (lambda (x) x) 1 10)
=> 55

これを、先日の両替問題におけるsumに応用すると、次のようになる。
;; change coin iterative
(define (d k)
(cond ((= k 1) 1)
((= k 2) 5)
((= k 3) 10)
((= k 4) 25)
((= k 5) 50)))

(define (cc-iter a k)
(define (sum i summed)
(if (= i (- k 1))
summed
(sum (+ i 1)
(+ summed (cc-iter (- a (d (- k i))) (- k i))))))
(cond ((< a 0) 0)
((= k 1) 1)
(else (sum 0 1))))

(define (count-change-iter a)
(cc-iter a 5))

(count-change-iter 100)
=> 292

これは、末尾再帰ではない。けど、iterative (だよね?)。

2005/09/15

電波をインターネッツで公開することの是非についての考察。

もやもや を具体的な姿で示すことと、具体的な姿を もやもや にすることは、単純な逆変換というわけではない。前者は具象化と呼ばれ、後者は抽象化と呼ばれる。これらは確かに逆変換なのだけど、それが単純でないといっている理由は、変換が準同型でないからだ。もやもや →姿→ もやもや で戻ってきた もやもや は、一般には最初の もやもや とは次元が違う。この、もやもや の次元に、順序をつけよう。順序のつけ方は任意だけど、「その もやもや の意味を評価できる第三者の数」に応じて、> または < または = を適用することにする。第三者は人間とは限らない。また、意味の定義はここでは与えない。この順序を、 もやもや のモデルを集合と見なしたときの包含関係により定義しても同じことである。
たとえば。
いまここで、自分の頭に漂っていた もやもや1 を、「多次元のもやもや」みたいな言い方で姿ある形に書き下した。これは、もやもや1 を具象化したことに相当する。さらに、順序をつけることで、書き下した概念を改めて もやもや2 に変換した。なお、もやもや1 は(定義により)そのまま日本語で説明することは不可能だが、もやもや2 は書き表せる。書き表せる、ということは、最初の もやもや1 に比べて、意味を評価できる第三者の数が明らかに多くなったと考えてよい。つまり、もやもや1≦もやもや2(等号は、もやもや2 を評価できるのが依然として自分だけの場合に成立する)。

うーん、どうでもいい。こういう「それっぽい」ことを書くのはやめてください、という声が内側から聞こえるが、電波でも書けば もやもや の次元があがるんだよ。だから書くことにした。