昨日の続き。
かといって、「次の景色」がまったく見られない状態が続くと、やっぱりフラストレーションになるわけですよ。だから、映画やゲームやマンガやアニメのような比較的安直に「次の景色」を見せてくれる媒体に逃避する。『バイオハザード』とか。
元気なときは、数学や物理の教科書を読んで「次の景色」を楽しめるようなときもある。しかし、基地外みたいに仕事して帰ってきた後なんかでは、概念や数式を「景色」に変換する処理が脳内で追いつかず、「次の景色」どころか「今の景色」すら見えない。目隠しをして、さらにガラス黒塗りの車に揺られている感じ。うんうん言いながら読み進めても、なんとか目隠しの隙間から覗ける景色さえもが絶望、みたいな。
数学書ほどでないにせよ、小説(というか文学)も、「次の景色」を提示してくれる媒体のなかでは脳や身体や時間にコストがかかる部類だと思う。そんなわけで、読まない。「もう小説には飽きたYO」とかいってうそぶく。おのずと書店の文芸書のコーナーから遠ざかる。小説のレビューとかWebで見かけてちょっと読んでみても、やっぱり小説はコストと満足とが平衡しないなという重い気分になって、さらに別の作品に手を伸ばすこともない。面白い小説に対する意欲がわかないから、情報が指数関数的に少なくなり、新しい小説を読む機会が消失して、もうすっかり小説に興味がなくなる。
この傾向は、「小説を読まない」という状態だけを見るなら、単に嗜好の問題で片付く話だろう。しかし、もともと好きだった「小説を読む」という活動が、脳や身体や時間へのコストから萎縮しているとすれば、そういう精神状態に問題があると自覚しなきゃだめでしょ。
この週末、『ラス・マンチャス通信』という小説を読んで、この傾向から脱却できそうな気がした(これが本題)。この小説が小説に「次の景色」を渇望できる心理状態を思い出させてくれたのか、そういう心理状態になったタイミングでこの小説を読むことができたのか、その辺りは不明だけど、とにかくいようにおもしろかった。そんなわけで、次に読む小説を物色中。
0 件のコメント:
コメントを投稿