2006/05/05

ふつうのコンピュータ書籍がどうやってつくられているか。
  1. 企画
  2. 執筆や翻訳
  3. 編集
  4. 組版
  5. 印刷製本
おわり。

といいたいとこなんだけど、現実はこんなにシンプルじゃない。問題なのは、各ステップがほとんど分裂していること。
  • 編集してから執筆をやり直してもらうことは、よほどのことがない限りできない。
  • 組版してから編集をやり直すことは、実際には頻繁にやらざるをえないんだけど、とても手間と時間がかかる。
  • 書いてはみたけど時間が経ちすぎて市場性がいまいちになっちゃったね。でも企画からやり直すわけには……
  • 当然のことながら、印刷してから誤植が見つかっても直せない。
うー。

上にあげた4つの「後戻り困難ポイント」のうち、最後の1つは物理的にどうしょうもない。どんな製造業にも後戻りできない一歩っていうのがあって、書籍制作の場合にはそのひとつが印刷工程なんだと思う(流通するまでは本当の意味で後戻りできないわけじゃないんだけど)。

で、残りの3つの「後戻り困難ポイント」に直面した場合どうなるか。従来ありがちなのは、順に
  1. 読者が泣く
  2. 制作業者が泣く
  3. 担当者(i.e. 出版社)が泣く
  4. 著者が泣く
この順番に並ぶのは理由がある。まず、「後戻り困難ポイント」に直面するのは制作中の書籍の内容に十分な価値が認められない危惧が生じた場合なわけで、そのまま後戻りできずに流通までいたってしまった書籍の読者が泣く(このケースがほんとに多くていやになる)。
残りは読者が泣いていないケース。つまり、後戻りが不要だった(原稿が完璧で編集も完璧で組版も完璧)か、どっかの時点で困難を乗り越えて後戻りに成功した本である。「後戻りに成功」って書くと、プロジェクトX的な何かっぽくて聞こえがいいけれど、そんなわけはない。誰かがどこかで泣きながら困難な後戻りをやっている。誰がやっているかっていうと、出版社は著者に頭があがらないし、制作業者は出版社に頭があがらないから、推して知るべし。

すっかり愚痴っぽくなってるけど、ようするに現在の書籍制作は前近代的な「誰かが泣く」ソリューションに負っている。もちろん各工程で何も問題がおきなければいいんだけど、文筆のプロではない著者に本業の傍らで執筆してもらい(しかも半ば善意で)、それを一人の編集者が何本も同時にハンドリングし、安い単価でMacオペレータに手作業で組版してもらっている限り、デフォルトで誰かが泣いている。ということは、現在のやり方には何かしら問題がある。

どこに問題があるんだろう。考えられる可能性は、こんなとこ。
  • 紙の本が儲からなすぎ。何事も品質を求めれば金がかかるけど、金をかけようとしないので品質が悪くなり、読者が泣く。あるいは、何とか限られた金額で品質を高めようとして制作業者が泣く。編集者もサービス残業漬けになって泣く。
  • みんな紙が好きすぎ。とにかく紙に印刷されたものベースでしか制作が進まない。内容に責任を負うべき人間が制作にかかわる唯一の方法は、紙へ手作業で赤字を書き入れること。それをもとに、内容には関与しない人間が、やはり手作業でちまちまとデータを修正する。赤書きした本人が修正結果を確認できるのは数週間後だったりする。修正作業者が内容を理解しているわけではないので、その作業が新たな問題を生むことも少なくない。
  • 制作技術の進歩がなさすぎ。ページレイアウトを作るのに、いまだに植字工が活版を組んでいるのと原理的に同じ作業をコンピュータを使って手作業でやってる。一度組んでしまったものをスケジュールを崩さずに直すのは不可能。あとどうしょうもなくバカバカしいのは、節番号や図暗号の連番をふったり、ページ番号を参照したり、索引のページを解決したりするのが、全部手作業なこと。そんなのLaTeXやMS Wordでも自動でできるって(DTPソフトによってはできるものもあるけど、オペレータの数が限られていて一般には利用されていないというオチ。このへんも手作業な世界観が支配的で情けなくなるところ)。
というわけで、企画するまではともかく、そこから先の印刷直前までの工程は一種のバクチなのが実情。

ではどうするか。いちばんキモなのは、内容に責任を持つ人間が最終的なページレイアウトまでをハンドリングできるようにすること。紙に赤字で修正指示を出して……という他人任せな方法は極力回避する。これには2つメリットがある。
  • ありえないミスがなくなる。赤字の修正指示は字の汚い人間にとって苦痛なだけでなくリスキーでもある。それを見てデータを直す人間が内容を理解していれば対応できるけど、専門書でそんなことは期待できないわけで。とくに数式をよろしく対応してもらうのは絶望的
  • 制作期間を短縮できる。紙をやりとりするのは時間の無駄。
これを実現するには、「最終的なページレイアウト」とか、そういう夢見心地な発想をあきらめること。この発想の背景には、内容とレイアウトは別物という意識がある。たぶんこの意識はページレイアウトをする側のものだと思う。確かに本当に凝ったレイアウトを扱うにはそれだけを見る人間が必要だけど、そんなのは「伝票をチェックするためだけに人を雇う」というのと同じ発想で、それだけの規模がある業務なりプロジェクトなりでなければ無駄でしかない。(ちなみにここでレイアウトって言ってるのはデザインのことじゃない。)

で、ページレイアウトって、正直Webページ程度の表現力があれば事足りるものが多い。Webページであれば、公開する直前まで執筆してる人間が内容を修正し、それにCSSなりでスタイルを当てれば十分なコンテンツになる。しかも、執筆している人間に公開の直前まで許されている修正は、「てにおは」レベルのものじゃない。文章の階層構造はもちろん、説明の順番や図の配置まで、全部修正できる。どうして書籍の制作ではWebページのようにぎりぎりまで原稿を修正することができないのだろう。
Webブラウザと紙ではメディアとしての性格が違うという人も(DTPによる書籍制作にかかわってきた人のなかには)いるだろうけど、それは説得力がない。LaTeXとか、20年前からふつうに同じようなことができてたわけで、紙の制作に限って技術的な制限があるなんていうのはDTPソフト会社にだまされているだけだ。

1 件のコメント:

  1. 一応貼っとくね。2004-12に書いたもの。

    hisashim: [Publishing] ソフトウェア開発になぞらえて考える、出版物の編集製作における問題点
    http://hisashim.livejournal.com/81816.html

    あとRails本編集制作の詳細も、公開よろしく。

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